SHARE “建築と今” / no.0003「長谷川豪」
「建築と今」は、2007年のサイト開設時より、常に建築の「今」に注目し続けてきたメディアarchitecturephoto®が考案したプロジェクトです。様々な分野の建築関係者の皆さんに、3つの「今」考えていることを伺いご紹介していきます。それは同時代を生きる我々にとって貴重な学びになるのは勿論、アーカイブされていく内容は歴史となりその時代性や社会性をも映す貴重な資料にもなるはずです。
長谷川豪(はせがわ ごう)
長谷川豪建築設計事務所代表。1977年 埼玉県生まれ、2002年 東京工業大学大学院修士課程修了後 西沢大良建築設計事務所勤務、2005年 長谷川豪建築設計事務所設立、2015年 東京工業大学大学院博士課程修了 (工学博士)、2009-11年 東京工業大学非常勤講師、2012-14年 メンドリジオ建築アカデミー客員教授、2014年 オスロ建築デザイン大学客員教授、2016年 カルフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)客員教授、2017, 19年 ハーバード大学デザイン大学院(GSD)客員教授
主な受賞歴:SDレビュー2005鹿島賞、平成19年東京建築士会住宅建築賞金賞受賞、第24回新建築賞受賞、AR Design Vanguard 2014
主な著作:『考えること、建築すること、生きること』(単著、LIXIL出版、2011)『Go Hasegawa Works 長谷川豪作品集』(単著、TOTO出版、2012)『長谷川豪 カンバセーションズ』(共著、LIXIL出版、2015)『a+u 556 Go Hasegawa』(a+u、2017)『El Croquis 191: Go Hasegawa 2005-2017』(El Croquis、2017)
URL:http://ghaa.co.jp/
今、手掛けている「仕事」を通して考えていることを教えてください。
ここでは「主な仕事」である設計活動ではなく、建築に関わる「他の仕事」を通して最近考えていることについて書きます。
高校生と建築について考えるということを数年前からやっています。
母校で講演させてもらったことをきっかけに先生方と繋がりができてから毎年呼んでもらっていて、職業についての授業のなかで建築家について話したり、家庭科の時間の1コマで住宅のレクチャーをしたり。さらに今年度は、文科省が高校で始めた「総合的な探究の時間」の枠を利用して、高校1年生と住宅の模型のワークショップを進めているところです。
一般的に、日本でも海外でも建築教育は大学から始めるものだとされています(日本では工専から大学の建築学科に編入する人もいますが全体で見ると僅かです)。
これまで国内外の大学で建築の設計を教える機会がありましたが、設計が上手な学生はどの大学にも一定数います。ただ、海外の学生のほうが日本の学生よりも、建築に馴れていると感じることが何度もありました。彼らの話を聞いていると、大学で建築を専攻する以前の、つまり子供のときの「建築の経験」が考えのベースにあるように思いました。
こうした違いの原因はいくつかあるのでしょうが、やはり日本と比べるとヨーロッパやアメリカのほうが、建築や建築家が社会に認知されていることが大きいように思います。日常的に建築を見たり話したり考えたりする文化がある。
自分自身のことを振り返っても、大学で専攻するまで建築は遠い存在でした。産まれた瞬間から建築に関わっているのに、考える対象として建築を見たことがほとんどなかったのです。
こうした問題意識を持っていたこともあり、高校生と建築について考えるこの機会を、できれば続けていきたいと思っています。
でもこう書くと「難しそうな建築を分かりやすく子供たちに教えて建築の敷居を低くする試み」だと思われてしまいそうですが、必ずしもそうではありません。
建築について何も知らない高校生だからといって、手加減はしません。
実際に、専門用語の解説を少し挟むことはあっても、大学で行うレクチャーとほとんど同じ言葉で建築について説明しています。先ほど「大学で専攻するまで建築は遠い存在でした」と書きましたが、それは「建築が難しくて遠かった」のではなく、単にそれまで建築を意識して深く考えるきっかけがなかっただけです。
話が少し逸れますが、建築に限らず、いまは何事も「分かりやすいこと」は良いことだと無条件に信じられ過ぎている気がします。「分かりやすいこと」が権力を持つようになったのはだいぶ前かもしれませんが、ネット社会がそれに拍車をかけ、効率よく、瞬時に少しでも多くの情報を入手できることが善とされている。しかも子供よりもむしろ大人のほうがそう信じ込んでいるから厄介です。
もちろん「分かりやすいこと」が良いときもあるでしょうが、その場で瞬時に分かることばかりに価値があると思えません。むしろ自分のなかにずっと残っていくものって、「自分で分かる」まで時間や労力をかけたものではないでしょうか。海外の学生と話したときにたまに感じた彼らの「建築の経験」は恐らくそういう類のもので、建築入門書に分かりやすくまとめられている知識などではありません。
例えば今週は、近現代の住宅作品の写真と図面を見て気づいたことを発表してもらいました。
「住吉の長屋は、部屋のなかに柱のデコボコがなくて壁だけでできているので光が綺麗に入ってきます」
「斎藤助教授の家は、和風と洋風が部屋のなかで釣り合っているような気がします」
予備知識ゼロの、高校1年生の気づきと言葉です。
何も知らないからといって手加減などしないほうが、驚くような反応が返ってくると思っています。
今、読んでいる「文章」とそこから感じていることを教えてください。
最近読んだなかで印象に残っているのは、数学者の岡潔の文章。
とりわけ「情緒」についての記述が興味深いのですが(『春宵十話』と『紫の火花』)、なにより岡の文体や展開そのものに惹かれました。小林秀雄との対談のなかで「岡さんの文章は確信だけが書いてある」と指摘され、岡は「確信のないことを書くということは数学者にはできないだろうと思いますね。確信しない間は複雑で書けない」と応えています(『人間の建設』)。
文章が上手い人はたくさんいますが、テクニックや巧さに頼らずに、物事を見抜く力だけで岡は書いている。確信だけが書いてある。見習いたいです。
今、印象に残っている「作品」とその理由を教えてください。
コルビュジエの「サラバイ邸」と篠原一男の「土間の家」で体験した、地面と地続きの、暗がりの場所が強く印象に残っています。
土間の暗がりには、静かでひんやりとしていて、なんとも言えない安心感があったのですが、それは自分が守られている安心感というよりも、他の生き物たちと共存している安心感でした。あの土間の暗がりが目に見えないいろいろな微生物を室内に棲みつかせていることを想像させ、さらに家にいる動物や植物は自分が見慣れている動植物(室内飼いのペットや観葉植物)とは全く違う表情をしていて、ドキッとしました。
近代建築は「土」や「暗さ」を捨て去り、人間は他の生き物たちと別居するようになったわけですが、あの土間の暗がりを単なるノスタルジーではなく、何らかの可能性として見れないか。最近そんなことを考えています。