※このエッセイは、杉山幸一郎個人の見解を記すもので、ピーター・ズントー事務所のオフィシャルブログという位置づけではありません。
建築の輪郭。質量と仕上げ。
text:杉山幸一郎
個人的な話になってしまいますが、僕がピーターズントーの設計した建築を初めて目の当たりにしたのは2010年三月下旬頃。スイス連邦工科大学(ETH Zürich)へ留学していた時に、春休みを利用してケルンにあるコルンバ美術館を訪れたのでした。
当時、友人を訪ねてベルリンを訪れ、ハンブルク(Hamburg)に寄ってから、スイスに向かって南下する途中、ケルン(Köln)に数泊しました。
ケルンへ立ち寄ったのは、聖コロンバ教会ケルン大司教区美術館 (Art Museum Kolumba 2007、以下コルンバ美術館)と、ブラザー・クラウス野外礼拝堂 (Bruder Klaus Field Chapel 2007、以下ブルーダークラウスチャペル)へ訪れるためです。
当時ですら、ズントー作品を網羅していた建築雑誌『a+u』の特集号(1998.2)は、希少本となっており、大学図書館で借りて眺めながら、是非とも彼の設計した建築を訪れようと興味を深めていました。
(ちなみに、この特集号では英語読みでピーター・ズントーと表記されています。他にもドイツ語読みに最も近いペーター・ツムトア、ツムトールと表記されている書籍がありますが、僕はズントーと表記するのに慣れてしまったのと、身近に接している本人の印象からすると、むしろ力強い英語読みのズントーの方がしっくりくる気がして、このエッセイではズントーという表記で統一しています。)
2010年に訪れた当時の日記を読み返すと、どうやら記憶にある以上に相当なショックを受けていたようです。
というのも、当時の僕が「建築とはこうあって欲しい」と自分勝手に求めていた理想の建築像に、限りなく近いものがそこに実現されていたからです。
自分でも正確にはイメージしきれていなかった理想の建築が、自分の想像を待たずして既にそこに建ち上がっていた。
それを初めて見て体験したにもかかわらず、「これがまさに僕が求めていたものだったんだ」と納得してしまった不思議な体験。
自分がやりたかったことが先に実現されてしまっていたことへの悔しさ。
それをはるかに飛び越えて、何より自分すらも知らなかった、自分が心のどこかで求めていたものが明らかにされてしまっていたことへのショック。
建築を訪れて、頭が空っぽになるほどショックを受けてしまった経験というのは、そうはありません。ともすれば、まだ学生だった自分の建築人生に見切りをつけてしまいそうになりました。
こんなことが起こりうるのか。。
どうして良いのかわからない気持ちをどこにしまっておくべきなのか。
この出来事は僕に、どうしてもズントー事務所に行かなければと決意させた瞬間でもありました。