SHARE 青木淳が広島の「三次市民ホール」を設計する際に考えていた事
※このテキストは青木が「三次市民ホール」の竣工にあたり関係者に送った案内を一部抜粋したものです。
そこに記されている内容には、非常に心動かされるものがありました。
アーキテクチャーフォトでは皆様にも是非読んでいただきたく、弊サイト掲載の許可を頂き、ご紹介しています。
text:青木淳
三次(みよし)は、広島県の、瀬戸内海からも日本海からも同じだけ離れた、中国地方のへそに位置する町ですが、3つの河が合流するその盆地の町に、1000人規模のホール、「三次市民ホール きりり」を設計しました。
この建物の設計には、なんと言っても、東日本大震災の体験が大きく影響をあたえています。
95年の阪神淡路大震災のときも、被災地を見て回りました。
そして、その帰りの新幹線で東京駅に入線するとき、「ぼくたちは実は、すでに壊れてしまっている環境に生きているのではないか、壊れてしまってバラバラになっているものが、なにかマジックのような接着力で一瞬だけかたちを保っているだけなのではないか」という気持ちに、襲われました。
もちろん、ぼくの事務所は東京にあるので、東日本大震災においてもまた、客観的には、当事者とは言えないかもしれません。
でも、95年に襲われた気持ちが、今度は、以降ずっとぼくの奥底に置かれることになったという意味では、東日本大震災は自分の体験でもあったと思っています。
「三次市民ホール」のプロポーザル・コンペが開催されたのは、その2011年の秋のことです。ぼくたちの提案はこの体験から発しています。
3つの具体的な提案を行ないました。
ひとつは、災害が起きることを前提に設計すべき、ということでした。三次は3本の川が合流する、洪水の危険を抱える町です。ハザードマップによれば、その土地には、5mの浸水可能性がありました。そこで、建物全体を5m持ち上げ、洪水時には、建物全体を周辺から逃げて来られる場所になるようにしよう、としました。持ち上げたその下の空間は、大きな公演時には全面的に駐車場として、日常的には、舞台大道具をつくったり、ダンスなどの練習ができる、屋根付きの「余白」として利用できるはずです。その空間は、いわゆる駐車場ためにつくられた空間とは異なる、未知の公共空間になると考えました。
もうひとつは、表と裏の区別をなくしたプランニングでした。一般的に、ホール建築の空間は、表の観客のための空間と、裏の出演者のための空間に二分されます。しかし、地方のホールで、その区分が必要なのは、年に数回あるかどうかの大公演時に限られます。市民ホールは、日常的には、練習にやってくる市民で賑わう公民館的な空間であるべきだと考えたのです。そこで、建物に回廊を回して、どこも表として計画することを提案しました。建物を、いわば小さな町としてつくることを提案したわけです。裏が必要なときは、ある道(回廊)の部分を「通行止め」にすれば事足りる、と考えたのです。因みに、ぼくが知る限り、こうしたプランニングをもったホールの先例はありませんでした。震災の体験は、ぼくたちの生きる日常の基盤について考えを巡らし、その考えに基づいて基盤としての空間をつくりだすことこそ建築の役割であることを、改めて確認させてくれました。
3つめは、ホールを使いたおす、ということでした。これは、2つめの提案と重なります。にもかかわらず、これを3つめとして分けて挙げたのは、こちらはプランニングの問題である以上に、空間の質の問題だからです。市民がそこを使いたおせるためには、その土地の空気と連続感が必要です。が同時に、ホールにはハレの気分も必要。とはいえ、そのハレもとってつけたようなファンタジーではなく、日常の延長線の向こうにあるものでなくてはならない。つまり、普段、違和感なく、そこに行くことができて、でもいつかはここの舞台に立ってみたいという夢も必要、というわけです。普段使いだけれど、ちょっと背伸びしている。これはなにもホール建築にだけ必要な空間の質ではありません。今にただ満足するのではなく、そのもう一歩先をいつも見ているような環境の質。こうした、ハレとケの関係を空間としてつくりだすこと。震災の体験は、新たな刺激を求め続ける消費社会のための建築とは異なる、もうひとつの建築のあり方があることを、改めて確認させてくれました。