SHARE 加藤孝司 BEYOND ARCHITECTURE “構造家、満田衛資インタビュー”
photo©Takashi Kato
二年前の建築基準法の一部改正以来、建築設計の現場ではいまだ混乱が続いていると聞く。
法改正のきっかけにもなった一連の耐震建築偽装問題発覚以降、誰もが当たり前に約束されていると思っていた、建物の安全性が足元から揺らぎ、暮らしのなかで漠然とした不安を感じることも少なくない。
そのような現状の中、昨今建築専門誌あるいは一般誌など一部メディアにおいて、構造家の存在がクローズアップされているように思う。
そこにはそれらの問題を具体的に解決する存在としての構造家への、社会からの期待があるのではないだろうか。
一方、それを報道するメディアに目を転じてみると、建築基準法改正と、その発端になった耐震建築偽装事件発覚当時の、芸能人のスキャンダルを報じるかのごとく過熱した報道とは裏腹に、改正建築基準法施行以降から現在まで続く、実際の建築設計の現場における混乱の現状は、ほとんど報道してこなかった。
それは分からないことにはだんまりを決め込むという、僕も含め一部メディアのあり方の悪習に依るところが大きいのではないだろうか。
建築の裏方としての構造家の存在のクローズアップという現状が意味するものは、おおまかに分けて、意匠デザイナー、構造デザイナー、という建築設計における二者の存在の背後に潜む、大文字の「建築」というものの「設計者とは誰か」という、究極的な問いかけにも繋がるだろう。
僕が初めて構造家、満田衛資さんに出会ったのは昨年の晩夏の広島だった。夜風の心地よい平和記念公園にほど近い川辺のカフェで行われた「若手建築家のアジェンダ」というイベントにコメンテーターとして参加されていた満田衛資さんは、過熱しながら情熱のままにいささか拡散していく若い建築家たちの議論に対し、構造家の立場から骨格を与えていくような、短く丁寧に言葉を選びながら話す、その冷静な語り口が印象に残っている。
あれから半年後、春間近い穏やかな日和のなか、満田衛資さんの設計事務所がある京都に出かけ、ゆっくりとお話を伺うことができた。以下がその時の記録である。
構造家、満田衛資インタビュー
構造の力と倫理
構造の具体的な方法
満田衛資構造計画研究所が構造設計を手掛けた“カタガラスの家”。意匠設計はTNA。写真提供:TNA、満田衛資(階段の写真のみ)
満田さんが構造デザインを手がけたTNA(武井誠+鍋島千恵)の御二人による「カタガラスの家」が、先ごろ新建築賞を受賞しましたね。おめでとうございます。
いえいえ、あれはあくまでも作品と建築家に対する賞で、構造担当が受賞した訳ではありませんから。ですが、自分が関わった作品が高い評価を受けるというのは、やはり嬉しいですね。武井さん鍋島さんたちの頑張りの結果だと思います。うちの事務所としても現在の代表作のひとつとして語っている作品でもありますし、これからもそう言われるであろう作品だと思っています。
カタガラスという、視線は通さないけれど光を通すという素材を外観に印象的に使いながら、内部の壁はコンクリート打ちっぱなしという、外部と内部を反転させたような建築デザインをいかす上で、満田さんは構造デザインをどのように行っていったのですか。
あの構成自体はもともと彼らがもっていたもので、こちらから何か特別な提案をしたというわけではありません。建築として成立するために何をどのようにケアしてあげなければいけないのかということを考えただけです。
ただ最初は鉄筋コンクリート造ではなく鉄骨造でやる予定でした。実際、鉄骨造として確認済証も取得していたのですが、資材の高騰などもあり鉄筋コンクリートで確認を取り直すことになったんです。
鉄骨造といっても、鉄板でやりたい、というのが当初の彼らの希望でした。彼らとしては『ムク鉄板特有の一つの物質のみでできている質感』を獲得したかったようなのですが、床もそれなりのスパンがあって、40ミリの鉄板でもまだ足りないし、そうなると重量的にもあの現場には搬入するのも難しい。
この建物は、TNAさんとの初めての仕事で、まだ、阿吽で分かりあえるような関係ではなかったですから、「鉄板でやりたい」という言葉に対して、『ムク特有の質感』もさることながら、鉄板特有の『薄さ』を求めているんだろうなという風に僕自身は解釈してしまっていて。
鉄板で作るというのは、抽象度も高いし、薄さ・細さを求めるデザインとなると必ずそこにたどり着く、いわゆる終着駅みたいなものなのですが、構造力学の視点で言えば、材料の使い方としては最も非効率的です。逆に、薄さと材料の有効活用、を構造合理で両立させるとなると、中はリブで表面に鉄板がある鋼板サンドイッチになります。ただし、その場合はサンドイッチパネルの構成がシンプルでないと加工手間が余分に発生します。今回は、色々なレベルに床が取り付くので、壁パネルには、たくさん細工をしておいてやらねばならないし、床パネルも、1方向床ならリブのパターンも簡単なのですが、2方向に解かねばならないところもあり、そういうところはリブのパターンも複雑になります。
そうすると、一応、ある程度の薄さと鋼材量で設計はできるし、見た目はシンプルにはなるのですが、実情は高度な製作手間と技術が必要で、意匠のアイデアは面白いんだけれど、構造や施工は裏で相当頑張っている、というのも事実でした。もちろん、獲得しているものも大きく、僕自身にとっても実現してみたいという思いがあったから進めていったわけですが、その一方で彼らが当初から求めていたプリミティブな『ムク特有の質感』みたいなものは十分には出せていなかったと思います。
さらにそこに、鋼材の高騰、という追い討ちがやってきて・・・。
それでは実際採用された構造はどのように成立していったのでしょうか。
コストを考えると相当ドラスティックにいかないとプロジェクトが成立しない。それである段階で、リブと鉄板で複雑につくるくらいなら、いっそ鉄筋コンクリートにするのはどうだろうか、という話しが出てきまして。鉄だと75ミリくらいで出来ていた構造が鉄筋コンクリートだと一気に倍以上の厚みにはなるのですが、一つの物質でできているという意味では、自分達の原初のイメージを含んでいる、という思いが彼らにはあったようです。そのコンクリートに切り替えるスタディをするなかで、構造的に勝負ありという風に思えた段階というのは、180ミリ厚の壁と床でできるとなったときです。これがたとえば、壁が200で床が150でとやりだしたら多分ありあわせでつくったという風になってしまうだろうなという気がしまして。
やはり壁も床も一つの物質でできている感じを求めていましたから、打放しコンクリートはそのイメージにも合うし、うっすらと外から見える厚みが一定であってくれた方がいいわけですから、180のみでいけるということを見つけたときに勝負あったと。それでストラクチャーとしては決まりました。
そういうふうにして構造デザインがさまざまな問題解決の方法としてあるということはわかりました。そこで満田さんが構造デザインを手がけるうえで大切にしていることとはなんでしょうか。
構造上で僕なりのストーリーというか筋の通しかたみたいなものを大事に思っていて、かつ、それが構造家のエゴではなく建築家にとっても満足いくものになるというところでしょうか。
法改正直後でいろんな苦労や格闘がありましたので、僕自身がとった賞ではありませんが、結果的にこの建物がそうした高い評価を受けたということに対しては関係者として非常に喜んでいます。
構造家の仕事とは?
満田衛資構造計画研究所が構造設計を手掛けている“O邸2”。意匠設計は、中山英之建築設計事務所。画像提供:中山英之建築設計事務所。
構造デザインをするうえでもっとも配慮することは何ですか。
まず当然ですが、結果がいいものにならなきゃいけない。それは建築主にとってもそうだし、建築家にとっても、僕自身にとっても、建てることに関わった職人さんたちにとっても、これは俺がつくった建物だ、って皆が誇れるものにならなきゃいけないと思っています。そうなるように意識を持っていったり努力したりすることが大事なんじゃないかな、とは思っています。
僕の構造というもののイメージでいえば、例えば、山奥の線路端に打ち捨てられて廃墟のようになった、かって使われていた駅舎や、今残されているジャン・プルーヴェのプレファブ住宅の構造などがそうであるように、構造デザインはそのあり方がシンプルであればあるほど素直に美しいと思います。方や、建築のデザインのこれまでの在り方を更新していくような、植物の生態系のような複雑さをもった構造デザインも、それに何かしらの根拠が感じられるなら、素直に美しいと思えます。
直線的でシンプルな構成であっても、有機的で複雑な曲面をもった構成であっても、筋道の徹し方に一貫性があれば大局的にはシンプルさから逸脱していないと思うんですよね。
もちろんそのシンプルさを成立させる背景には色々な苦労はあるのですが。
構造デザインはパブリックスペースにある建築というものの在り方の当然の帰結として、安全性を確保し、それを造り出すとても重要な責任を担っていながら、その在り方は意匠デザイナーに対して縁の下の力持ちともいえる裏方のような存在だと思います。
あまり表には出てこない、構造家としてのそのような裏方的な役回りを意識することはありますか。
意識するも何も、仕事の成り立ちが基本的に『下請け』ですから。意匠設計者がその実績や営業努力で建築主と設計契約を結び、その後で構造に依頼をしてきた仕事と、意匠設計者が「この構造設計者を使いますから」と言った上で受注できた仕事は意味が違います。最初から構造担当を明記するコンペなどは後者の部類ですが、現実の多くのプロジェクトは前者の部類で、それは明らかに下請けです。そこの違いは混同しない方がいいんじゃないでしょうか。間違っちゃいけないのは、「元請-下請」という関係であることと、協働設計者として「対等」の関係が築けているかどうかは、別の問題だということです。チームとしていい建物を作りましょうという目的がある以上、チーム内での自分の役割は何であるかということは自覚しているつもりです。
裏か表かっていうのは、設計者名というかクレジットの出し方のことのことだと思いますが、連名で発表する構造設計者もいらっしゃいますし、そもそも連名じゃないと仕事をしないというスタンスの方もいるという噂も聞いたことはありますが、僕の場合は、今言ったような仕事の発生の仕方や、プロジェクトの中での振舞い方で自ずと決まるもんなんじゃないかぐらいに思っています。
結局のところ、建築は都市だとか風景に対してある強さをもって立ち上がってしまいますから、その立ち表れ方のことも構造のことも全部含めてトータルに責任の所在はどこにあるかという問題で、君を連名にはしないけど責任は取れよと言う意匠設計者、あるいは、俺は責任は取らないけど連名にしてくれと言う構造設計者は、どっちもおかしいですよね。
どっちにしろ僕は連名かそうでないかで仕事のクオリティを変えることはないのですが。
元請けが意匠設計者で、下請けが構造設計者であるという構図が逆転し、つまり、まず構造設計者が受注してそれを知り合いの建築家に意匠の担当をお願いして、というようなことになってくると、構造設計者と社会の関係は嫌でも変わると思いますけど、今のところ社会の仕組みを含めてほとんどの場合、そうではないということです。
問題解決の方法としての構造デザイン
「絵に描いた餅を具体的な喰える餅にする」というような方法論があると思うのですが、構造家の力量によって建築の立ち上がり方が変わっていく、というような自負はありますか。
自負ってものはないですが、そういうもんだ、という自覚はしています。僕がやればいいものになるなんて偉そうな気持ちは全然なくて、だけれどもしかるべきパートナーと組めたか組めなかったかで結果が違ってくるというのは、それを思うのは多分建築家のほうで、彼らがどう感じているかではないかと思うんですね。
建築家から「この人と一緒に仕事がしてみたい」と思ってもらえるような仕事人になればそれはいい話だなぁと自分では思っています。でもそこは自分ではコントロール出来ない部分なので。
ただ自分がどういった態度でどのように仕事に臨んでいるか、ということはきちんと示していかなければいけないと思っています。
ホームページやブログにいくら美辞麗句を並べても、そこに嘘があれば、仕事をしてみたらすぐバレますし、全然期待はずれやったわ(笑)、って思われるだけでしょ。そうではなく、こういう場合にこう考える人間だという事実をできるだけ素直な状態できちんと示し、こちらのスタンスを表明し続けていれば、もともと相手はそのように思ってくれながらお付き合いしてくれていると思うので、あまりイメージとは違うなぁ、とはならないのではないかと勝手に思ってはいるんですが(笑)。
「あそこのレストラン美味しい」って雑誌に載っていたので行ってみたらいまいち、というのと一緒だと思うのですが、やはり、人それぞれで感性は違いますから。
僕は事務所を立ち上げてからまだあまり時間がたってはいないですし、建築ってそう頻繁に建てられないので、同じパートナーと何回かやって理解しあえる関係を築いていこうとすると普通に3年、4年とかかってしまいますよね。
そういう意味で今一回目のプロジェクトでお付き合いしてくださっている建築家の方が次も付き合ってくださるかわかりませんから、今は珍しがられて忙しくさせていただいていますが、3年後、4年後にどうなっているかは全くわかりません。
全能なるオールマイティーな存在を信じる
でも、満田さんのお仕事を拝見していると、デザインが本来持っている、問題解決としての能力の高さを感じます。それが数多くの建築家の方々に信頼されている理由のような気がします。
まず、なぜ構造家が存在しているのかっていうことになると思うのですが、どんなデザインの分野の人でも同じだと思いますが、デザイナーなる職業、建築の分野であれば建築家なる人が、自分のジャッジメントのみですべてデザイン出来ればいいわけですよね。
オールマイティーな全能の建築家がいれば、現在のように分業にしなくて済むわけじゃないですか。僕はそんな存在を信じていたんです。いまでもそれが理想の姿だと思っているんです。
究極的にいうと構造家という僕らの仕事はそんな全能な存在としての建築家がいるならば、なくてもいい。なくていいというと語弊がありますが、建築家がちゃんとすべてを出来ればいいと。そうすれば他人事みたいな感覚で構造計算書を偽造するような馬鹿な人間は出てこなかっただろうし。
建築として担保しなければいけないひとつひとつ満たすべき性能が数多くあって、そのなかの特に構造に関する要求性能はそれなりに高度な内容になってきて、建築家だけでは考えきれない要素になってしまっているから、分業として存在するわけですね。構造専業の設計事務所が成立するという社会に今はなってしまっているわけです。
そして構造のことは構造の専門家に任せておけばいいことだ、となっている。もちろんそれだからこそ僕らの仕事は成り立っているのですが、それが本当にいいのか、って考えたときに僕は好くないだろうなと思っていて。デザインをしている以上、その楽しい部分でもあり、建築のあり方に直結するとても大事な部分を他者に委ねてしまうのはどうかな、って思ってしまうんです。まぁ、これについてはいろいろな意見があるとは思いますが。
たしかにそこのところが満田さんが「だから構造家は、楽しい」という、その「楽しい」に繋がるわけですね。
結局、他者に委ねるといったときに、デザインしたものの構造なり仕組みなりを理解したうえでそれをしないとマズイんじゃないかと思っているんです。
では満田さんにとって理想的なデザインとはどのような関係性の中から生まれてくると思いますか?
意匠・構造が、お互い、どの程度まで理解しあえているか、なんだと思うんです。
元請の建築士も確認申請の審査をする人も、どうせ構造のことなんてわかってないんだから、嘘を書いてもバレないや、って思って実際に嘘をついてしまったとんでもない奴がいた、というのが、例の耐震偽装問題の単純な構図ですよね。
世の中の消費者は普通、一級建築士の人がいて、その人が設計しましたって言ったら、構造のこともすべてやっている、と思っていたし、やっていないにしても、それ相当に理解はしているものだと思っていたんですよ。でも、実際はそうではないし、建築界では昔から分業は当たり前だし、意匠の人が構造のことを良く分かってなくてもそれは仕方ない、という空気があったわけですが、世の中の人はそれは当たり前と思っていなかったということですよね。
そういう話を含めまして話を元に戻しますと、ようするにそういう全能な建築家としての理想の姿があるとします。そのような存在であれば、多少迷いながらでも自分で決めることが出来る訳じゃないですか。それを構造という建築のあり方を関わるかなり大事な部分で他者に委ねなければいけないというのは歯がゆさみたいなものがあるんじゃなかろうかと思うんですよ。
それで僕はそういうときに、そのデザイナー、建築家の一部になれればいいと思っているんです。
それはオールマイティーで全能なる建築家という、理想像の一部ということですか。
今の僕の自分のなかの意識というのはそうなんですよ。僕という存在がデザイナーのなかにもぐり込むという言い方をしているんですけれども、幽体離脱の逆になりますが相手のなかにもぐり込むようなかたちになって、あるいは建築家の魂が僕の身体に乗り移って、という言い方でもいいんですけど、建築家が自分で構造計算も含めてデザインしている、ひとつの机のうえで模型や図面に向かっている建築家が、ある瞬間僕の目線になっていたりとか、僕の脳ミソや身体がうつりこんでいて、こうすればものが解ける、となれればいいと思うんですね。
だからようするに全智全能の状態の建築家ってそういうものじゃないですか。ある瞬間は構造のことを考えて必要な構造性能を満足させ、自分のデザイナーとしてのデザインも全部満足させるものをひとつのアウトプットとして出していくわけですから。
僕自身がそれに近い状態を実現できるきっかけになれればいいんじゃなかろうかと思っていて。
だからこそまず相手のことを理解しようとするというか、建築家がこういったことをしたいんですよと言ったときに、僕はいろんな質問を必ず投げ返すんです。
それは今ある事象を成り立たせるためとか、成り立ったあとにどうするかということを、あらゆる可能性を想定しながら最善の解決策を導くために必要なやりとりなんです。
デザイナーには僕の存在が鏡として写っていると思ってもらえるくらいであればいいと思っていて。つまり、僕との質問のやり取りは、実は建築家が自問自答をしているような状態。
何を言いたいかというと、最終的な判断を下さなければいけないわけですよ、建築家は。その大事な判断を下すところを構造家に丸投げするようでは駄目で、選択肢のまえにたったときに、キチンとした判断を下せる人と僕は仕事をしたいと思っています。その大事な判断をするためにコミュニケーションはとても重要な要素だと考えていますし、そのためには建築家以上に建築について勉強していかねばなりません。相手の行きたい方向を僕が読み誤ると、必ず誤った方向に解は向かっていきますから。
構造家が負うべき、社会的責任とは?
満田衛資構造計画研究所が構造設計を手掛けた“Shelf-pod/君府亭”。意匠設計は森田一弥建築設計事務所。大阪府建築士会主催の第55回大阪建築コンクールにて渡辺節賞を受賞。撮影:杉岡一郎
構造家としての仕事の重要さが、建築をするうえでのあらゆる場面ででくわす判断というものに凝縮していますね。構造家という役割は本当に責任の重い仕事といえますね。
建築のあり方や立ち現れ方に強く影響を及ぼすわけですから、当然、社会に対しても責任重大な仕事だと思っています。言葉がうまく通じないパートナーの場合だと誤った方向に進む可能性がありますよね。建築家のやりたいことがはっきりしないプロジェクトほどやりにくいものはないということが僕のなかでははっきりしています(笑)。やりたいことがはっきりしているなかで、今さらわざわざ僕に頼まなくてもな、と思うようなプロジェクトもありますし、かといって期待はずれのように思われても困るし。。。
僕が思うには、建築家の方が構造をお願いしようと満田さんにたどり着いた時点で、依頼する側には明確な構造家としての満田さん像というものがある気がしています。そこが依頼される側のむずかしさであり、楽しみなような気がします。それと素直に満田さんという人間像に対する興味と、満田さんなら最適な解をみちびきだしてくれるだろうという期待と信頼ですね。
そういう風に思っていただけているとすれば、僕にとってとても幸せなことだと思います。それと同時に期待に応えなきゃいけないというプレッシャーも発生しているんですけれども、名誉なプレッシャーですよね。
ただ、期待してもらっているとはいっても、今はまだ、佐々木事務所出身者ということが強く影響しているとは思いますよ。僕を通してみえる佐々木さんを期待しているというか。まあ、でも、ない袖は振れまへん(笑)、というのが本音で、過度に期待してもらっても困る、という気持ちもなくはないですよ。けれども、それが僕にとってのいいプレッシャーでもあり、それを感じながら期待を裏切らないように努力をしているところです。佐々木事務所出身というキャリアを含めて僕自身であることには変わりがないわけで、そこは逃げずに克服すべき良きプレッシャーとして受け止めています。
作品を見ればおのずと見えてくるものがあって、ひとつひとつに丁寧に関わっていけば適正な判断に結びついていくと思います。それが今の満田さんの充実したお仕事につながっているんじゃないでしょうか。
そういう意味では独立してから今のところいい時間を過ごせてこれてるな、と思っています。努力したことが次のステップに繋がっていって、という、いいスパイラルがいい大きさになっているというか。それは実感するところがあります。
満田さんがつくり、思い描く世界観が現実の社会とリンクしていっている実感はありますか。
こうやって注目していただいてインタビューを受けているわけですから、現実の社会とリンクしていっているという実感はあります。自分には何か特別な世界観があるなんて思ってはいませんが、社会との繋がり方については構造に限らず設計に関わる誰しもが関心を持つべきだと僕は思っています。僕はどちらかというと喋り過ぎている方なのかもしれませんが、構造設計というものについて、もっと社会に対して発信すべき時代に来ていると思っています。日本には、モノを言わないことが美徳という価値感や、あるいは、都合が悪くなったらダンマリを決め込む、というのが伝統的にあるのも確かなのですが、社会の構造設計に対するあまりの無理解さや、法改正を通じての構造設計業界の無力さを見てしまうと、僕はモノを言うべきだ派の構造設計者はもっと増えてもいいんじゃないかと思うようになってきています。構造設計者の発言力が弱いといつまでたっても小さくてひ弱な業界でしかないですし、そういう業界体質でいることによって才能豊かな人材が敬遠してしまうということは非常に良くないと思っています。構造設計って社会を支えている、ものすごく大事な職業なはずなんですよね。
いままでお話をうかがいながら、個々のデザイナーとお付き合いしながら、そのつど個別の問題に対処し解決する構造家という仕事は、社会性という観点からも取り組みがいのある仕事だということがわかってきました。
だからこそ「構造家は、楽しい」という満田さんの言葉は、そんな責任と真摯に向き合ってこその言葉だと思いました。
では、最後にこれから構造家をめざそうとしている若い人たちと、これから独立を考えている構造家の皆さんに向けてメッセージをお願いします
いやいや、僕自身は、この世界ではまだまだ駆け出しの若造ですから、偉そうなことは何も言えませんよ。もっとたくさんのことを学び経験していかねばなりませんし、僕よりも若い人たちとは、今後、一緒に成長していかねばならないような、まだまだそんな立場です。
僕らはもちろん構造のエンジニアでもありますから、日進月歩の構造技術のことを勉強し続けることはとても大事です。技術力を磨いていくことでそれなりに社会貢献していくことはできますから、それだけでも普通に満足感は得られると思います。が、そこに留まらず、自分の職能のあり様やあり方に能動的に意識を向けて欲しい。例えば、意匠設計者と構造設計者の関係、構造設計者が関与しはじめるタイミングや関与の度合い、建築主と構造設計者の関係、今の法律のあり方、今の社会システム、といった、慣習的に何となく受入れてしまっているものが、今の状態のままで本当に良いものなのか、もっと言うと、それらがどうあれば真に社会がより豊かに、より良くなっていくか、という視点も積極的に持ってもらえればいいなと思っています。
僕自身もまだまだ先は長いと思っていますから、そういう広くて長いスパンの視点をもった人達と一緒に切磋琢磨して成長していきたいなと、そう思っています。
(2008年2月23日、京都の満田衛資さんの事務所にて収録)
満田衛資(みつだ えいすけ)
1972年京都市生まれ
1997年京都大学工学部建築学科卒業
1999年京都大学大学院工学研究科建築学専攻修了
1999年(株)佐々木睦朗構造計画研究所 入社
2004年 同 副所長(2006.3退職)
2006年満田衛資構造計画研究所設立
http://www.mitsuda.net/