SHARE 吉岡徳仁によるロンドンのカンペールと、吉岡徳仁のデザインセオリー
吉岡徳仁がデザインしたロンドンのカンペールのショップです。ここでは、その写真とコンセプト、それに加え、吉岡徳仁のデザインセオリーをご紹介します。
photo©Alessandro Paderni
photo©Alessandro Paderni
以下、吉岡による作品についてのテキストです。
一瞬として同じ表情が存在する事のない、自然界に存在する草木や花の持つ美しくも不思議な原理を取り入れたこのデザインは、2007年にニューヨークで発表された、約三万枚のティッシュで空間全体を覆い尽くすインスタレーションがアイデアの源泉となっています。シンプルな素材の持つ美しさや、その不思議な世界観に魅了されて生み出したのは、まるで雪景色を彷彿とさせるインスタレーションでした。
今回、スペインを代表するシューズブランド、カンペールより依頼を受け、ロンドンのリージェント・ストリートにオープンするフラッグシップショップをデザインさせていただくこととなりました。個性あるデザイナーらと
数多くのプロジェクトを打ち出しているカンペールとの仕事だからこそ、「カンペールらしさ」と「自分らしさ」が融合したオリジナリティー溢れるデザインをすることに想いを巡らせました。
カンペールのコーポレイトカラーである赤を基調にした、壁一面に咲き誇る花は、ティッシュのインスタレーションをさらに発展したものとして実現出来ないかという考えのもと、完成しました。2008年に発表した椅子「Bouquet」と共通する世界観を持った、見る人に高揚感をもたらすデザインとなったのではないでしょうか。
以下、吉岡徳仁によるデザインセオリーについてのテキストです。
Design Theory
今まで、あまりデザインについて語ってこなかった。しゃべるのがあまり得意ではないということもあるけれど、一番の理由は、言葉にできないからだ。僕のデザインに説明はあまり必要ではない。言葉にするとイメージが失われてしまう。ものづくりは完全に理解できないから神秘的で美しい。
デザインはつくるものではなく、生み出すもの。
デザインは語るものではない。むしろ物が語らなければならない。物が語れば意味は自然と通じる。
デザインは自由だ。こうでなくてはいけないということはない。小さい考えは無意味だ。何が究極か分からないし、そもそも究極というものは存在しない。というのは、デザインは生きているからだ。
デザインは感じるもの。だから楽しい。
みんな僕のデザインを見て、新しい素材やテクノロジーを使っていると思っている。でもそうではない。おそらく、みんなが気づかなかった美しさを見つけただけなのかもしれない。
素材の本当の美しさを知ること。紙はくしゃくしゃでもいいし、破れた紙は本当に美しい。
頭で判断することをやめて、初めてそのものの美しさを理解できるのかもしれない。予期しない偶然が一番素敵だ。考えてできることなんか、ほんの一部なのかもしれない。
出来るだけ形をつくりたくない。
僕のデザインはまるで偶然に出来た、無造作な美しさを見せるドレスのドレープのようなものだと思う。それは考えて作られる物ではなく、自然に起こる力や偶然が作用してできる美しさ。図面やCGだけでは表現出来ない何かがそこにあると思う。頭で考えない、それは感じることで現れてくるデザイン。
飛行機の窓から見る、息をのむような雲の美しさもそうだったと気づかされる。
詩的ってなんだろう?
現象から導かれる美の世界。その風景は変化し、二度と同じ風景はつくり出せない。記憶の断片となって解けてしまう。
自然は一度として同じ表情を見せることがない。生きている証だ。生物の美しさはそこにある。雪の結晶の美しさはどんなデザインよりも美しい。偶然の美しさに心うたれる。雲を家にもって帰りたい。自然は世の中に存在する、最高のデザインだと思う。
僕が形をつくりたくなくなったのは、自然の美しさが少し理解できてきたからなのだろうか。
光や、空気。いくら知っていても、いくら語っても体験に代わるものはない。
それぞれが持つ経験、人の心に眠っていた何かから想像させる、美の記憶が僕のデザインを完成させてくれる。
誰が見てもほどほどに上手な絵。でも感動しないのはなぜだろう。エネルギーは全く別のところからやってくるからだ。
必要なのは新しい感動。大きな感動から日々の小さな喜びまで、感動から生まれるものこそがデザイン。
僕は物をつくっているのではなく、感動のエネルギーを形にしているのかもしれない。
デザインは、アートではないと否定されることがある。おそらくその人にとってのアートは、魅力的で、最も恐ろしい存在なのだろうと思う。
デザインとアートの違いをよく聞かれることがある。
大昔の人類に、デザインは無かった。しかし、アートや音楽はあった。
人はなぜ音楽を聞くか。おそらくそこに答えがある。
シンプルで、使いやすいデザインだけだったら、生活や心を豊かには出来ない。
そこには、心に響く音楽と、感情を揺さぶる映画、コントロール出来ない愛や、自然の原理の美しさが存在する。
アイデアはどこから浮かぶのか、正直僕が一番知りたいことだ。それと、湧いてくるアイデアに本当に感謝している。
常に新しい目標を見つけている。目標と作りたいものがあることは、本当に幸せだ。
日常の中でアイデアを成熟させていく。完成は自分しか決める事ができない。大きな課題と挑戦が新しい一歩となり、実験と失敗の中で光が現れ、奇跡的な結果を生み出す。そんなところにしか天使は現れてくれない。
「偶然はそれを受け入れる準備ができた精神にのみに訪れる。」 – アンリ・ポアンカレ
寿司は、奥深い素材選び、すなわち魚貝と海という自然界の関係を学ぶことから始まり、それを食することによって、初めて料理として完成する。だからこそ包丁さばきが料理の奥深さを表現する。
ヤマギワの照明ToFUは、元となるアクリルの塊に、ほとんど手を加えていないが、それもデザイン。美味しい豆腐に醤油は必要ない。
僕のデザインは今までになかったけれど、なぜか、今も残って日常に溶け込んでいる。
照明器具の形は消え、光が現れる。椅子は、座る感覚だけをデザインしているのかもしれない。
心地だけが残り、人が宙に浮いているような椅子があれば、これ以上のデザインはないと思う。
現象そのものや、感覚だけが存在すればいい。視覚ではとらえることの出来ないものが存在する。
僕は、形のデザイナーではない。デザインにおいて形がなければ最高なのに。照明なら光があればいいし、良い照明器具は電球や光に近い。
時間や空気、光をデザインしている。存在することで周りの空気を変えてしまうような、不思議なオーラを生み出したいのかもしれない。
自分は何をするために現れたのか。そういうことを考え始めていた。
自分の感情に耳をすます。
無意識を超える、心が高揚する不思議な感覚。
デザインは詩であって、それぞれの自由な想像から喜びをあたえる。人間は感動する動物。魂をゆさぶる歌、好きな人がつけていた香水、形はなくても人は感動する。
未来への一歩を生きている間に、少しでも創りたい。そして人生を掛けて、より多くの人に感動してもらいたい。だから僕はデザインし続ける。
たったひとつのデザインで人生が変わったり、世界中の人を幸せにしたり、デザインは人生の可能性を新しい希望でいっぱいにしてくれる。
デザインには夢がある、だから素晴らしい。