小笹泉+奥村直子 / IN STUDIOが設計した、東京・東久留米市の、野菜の直売所「野縁の小屋」です。
都市の農地はいつも翻弄されてきた。一所懸命に開墾して農業を営んでいたところを、戦後の農地改革(GHQ・1947)と農地法(1952)によってまとまった農地は解体され、零細な農業を構造的に強いられた。市街の開発圧力が高まる高度経済成長期には都市計画法(1968)により、都会となるべく市街化区域と田舎となるべく市街化調整区域が定義され、都市と農地の分離が進められた。いよいよ都市農地の存続が苦しくなったバブル崩壊の頃、生産緑地法(1992)の税制措置により都市農地は生産緑地化か賃貸住宅建設の2択を迫られ、地主は先祖代々受け継いできた農地を切り売りして賃貸経営をすることで収入を確保した。しかし、人口減と高齢化の目立つ近年になってようやく開発圧力が弱まり、今更ながら食料・農業・農村基本法(1999)や都市農業振興基本法(2015)において都市農地の環境保全・景観性、防火・避難、農業啓蒙・教育の機能が見直され、生き残った都市農地を保全する政策に転換した。都市農地は細かく刻まれ、まだらに市街化し、最終的には延命されることで今日に至っている。営農者からすると農業政策に振り回されたつらい歴史であるし、開発者からすると残念な街とみえるのかもしれない。
しかし都市計画学者からすると、農地混じりの都市は理想の都市であった。産業革命により自然から疎外されたイギリスの都市を憂いたE.ハワードの田園都市(Garden City・1898)の提案は自然との共生・職住近接が核であり、田園都市レッチワース(1902)を建設した。(東京でも渋沢栄一が田園都市を建設したが、ここに田園はほとんどなく、緑豊かな住宅地にとどまった。)農地混じりの都市は羨まれる理想の都市なのである。そこでは太陽と雨を受ける土で野菜が育ち、そこに住む人々が手にとって食べ、自然資源の循環を実感して生きることができる。生きた心地のする都市なのである。そうした農地混じりの都市が、東京西部の東久留米にもある。
その東久留米にて、野菜の直売所の設計と建設をすることになった。ここであらためて直売所を観察すると、直売所の原則が見えてきた。まず、野菜を供給する畑と人の通る道の境界にあって、野菜の世界と人の世界を出会わせている。また、農産施設であるために機能的かつ簡便であるので、仮設的で装置的・安価で自作可能であり、意匠を凝らしてはいないが立地と清廉さによるモニュメンタリティーをもっている。畑の野菜を置き・人が手に取ることを真面目に実現している。新しい直売所もこうした直売所の原則を引き受けるべきだろう。