SHARE radlab.で行われている湯浅良介の展覧会”nothing and something”の会場写真
京都のradlab.で行われている湯浅良介の展覧会”nothing and something”の会場写真です。
以下、radによる展覧会についてのテキストです。
湯浅良介の設計する建築物は、一見して「なぜ?」と問いたくなるようなものばかりです。幻想的とも少し違う、「建物かくあるべし」という考え方に何か異物を押し込まれるような、居心地の悪ささえ感じます。「なぜ建物に球体が」「なぜ家があんな形に」等という疑問は、もはやその中に「建物らしさ」さえなくなった別の模型に目を移すやいなや「答えられることはないのだな」という諦めに変わるでしょう。
一見すると荒唐無稽なプロジェクトとして受け取られかねない展示物ですが、彼は既存の都市やそれを構成する建設物への批判的視座からスタートし、それを空間的なストーリーへと落とし込んでいる。その限りにおいて他の設計プロセスと代わりはありません。おそらく、湯浅の建築に対する違和感の一因は、その手続きにおいて用いられるシュールレアリスム的な手法にあるように思われます。ある問題に対する解決として建築をとらえない彼の批判的視座は、既存の建築のみならずそのプロセスにも向いているのです。
湯浅の建築を前にして「なぜ?」と問うとき、その建物の形と、その「意味」や「機能」とがうまく結びつけられずに困惑しているのではないでしょうか。つまり、「何のためにこの建物 (らしきもの)はこんな形をしているのか?」ということを理解し難く感じている。容積を効率的に使うためだとか、熱効率を高めるためだとか、美的判断からだとか、その種の納得できる「形への合理性」が全く感じられない。彼自身それを説明する気はないらしい。では彼の焦点は一体どこにあるのでしょうか?
湯浅が着目すること、それを端的に言えば、想像力です。正確に言えば「他人の」想像力です。今回のプロセスにおいて彼は「オブジェ職人」「名付け親」「ドラフトマン」という三人の主体を想定します。彼自身はオブジェ職人を演じ、形をつくり、他の二者をその度ごとに要請する。あらゆる行為を建築家「ひとり」が行うとされる設計手法からは身を避け、「建築家」という名称を取りません。その形がどのような名を喚起するのか、形とそれに与えられた名とがどのような内部空間を喚起するのか、スケールはどうか、というように、他人の想像力をテコにしながらその度ごとに決定を重ねるこのプロセスは、「他人の想像力をテコにすること」においては理にかなっている。いわば彼は「どうやって形を決めるか」ではなく、「ある形がどう喚起するか」にこそ興味があるのです。
会場にはある空間が想定された一つの帰結が展示されています。そして、決定の積み重なりが生み出したそれらの空間は、今度は、観者の想像力を待っている。「なんの価値もないもの(nothing)」だからこそ、他者の想起を受け入れることができ、それをテコにした決定や解釈の積み重なりが「誰かや何かにとってはなくてはならない存在(something)」を示唆するのです。設計というプロセスの中で、そしてこの展示においても同様に、「nothing」であり「something」であるというその瞬間の、その度ごとの想像力にこそ湯浅は着目するのです。
■展覧会概要
rep.05|YUASA RYOSUKE / nothing and something
会期:2010年9月11日(土) – 10月11日(月)
時間:木曜日 – 日曜日(祝日開廊) 13:00 – 21:00
主催:rep- radlab. exhibition project
会場:radlab. (京都市中京区恵比須町531-13-3F)
アクセス:京都市バス停「河原町三条」徒歩5分、京阪電鉄「三条」駅徒歩10 分