SHARE 特集”ミラー&マランタ”、クイントゥス・ミラーによるエッセイ”設計手法について”
設計手法について
建築とは、人々の心の中に感覚・気分を換起するものである。したがって建築家に課せられた課題とは、そうした感覚・気分をより厳密化することである。住まう部屋であれば居心地よく、家であれば住み心地よいような外観をしていなければならない。裁判所の建物は、隠れた犯罪に対して威圧的な表情をもっていなければならない。銀行の建物は街の人々にこう語りかけなければならない。「ここにお前の金が、誠実な者達の手のもとに、しっかりと大切に保管されているのだ」と。
建築家こうしたことを実現し得るためには、今まで人々の心の中にそうした感覚・気分を喚起してきた建物を参照しなければならない。中国人の場合では、悲しみを表わす色は白であり、我々の場合は黒である。だから建築家が 黒色でもって愉しい気分をつくりだそうとしても、 それは無理な話である。
アドルフ・ロース(「建築について」/『装飾と犯罪』中央公論美術出版/伊藤哲夫訳より)
建築を設計するためには、様々な要素を含む知的なプロセスが必要であり、それが建物が作られていく中でいろいろな角度から人間の文化を描き出して、風景の中で人間の文化の移り変わりの成果を表している。具体的に建てることによって、日々の生活の要求に答えていく。
このような現象は、人間が屋根をかけて寝床を雨風から守るということにまでさかのぼることができる。生活していく上での必要不可欠な条件とこの起源とをふまえながら、住宅は作られる。そこから住宅が集まって、調和を保ちながら互いに共通な要素を取り入れて集落を作りあげる。それらが一緒になって、常に社会の成り立ちを投影している。最終的に、さまざまな集落が結びつけられていくことで、建物だけでなくすべての人工物が一体となって人間の文化的な要素を表していくのである。
われわれの知覚は、どこであっても日常においてこの原初的な空間と向き合っている 。進化の過程でわれわれが常に再発見してきた視覚的な経験に基づいて、自らの知覚をそのつど解釈し読みこみながら建てていく。このいつまでも続いていくプロセスは、思考と自己反省の結果を記述していくことといえるかもしれない。例えば、ただ単に以前見たことがあるような家を見るだけで、その感覚が呼び覚まされて、人の知覚と現実との間に相関関係がうまれてくる可能性もありうる。これらのことについて考えをめぐらせるために、われわれの知覚や記憶について考えてみたいと思う。
もしこういったことをふまえながら設計をすると、今までとはまた違ったやり方で設計というものを捉え、役に立てていけるかもしれない。私はこれまでの設計において、今までつくられてきたものを疑い、それについて議論して、そのつど答えを見つけようとしてきた。この考えに基づいて正しい答えを見つけるためには、設計された空間をできる限り正確に理解する必要がある。プロポーション、素材、そして光の状態について考えることによって、人々に共通する感覚を理解したい。これはあらゆる建築家が対峙する文化的に重要な責任なのである。
このことを念頭において、アドルフ・ロースの引用に戻ってみよう。彼の言い遺したことを体現するためには、既知のことや人々に共通する視点を参考にしながら、最終的にこれまで記述されてきたことを思い起こさなければならない。場所から始まる問いは、まず場所の基本的な特徴を分析していなければならず、価値のある判断をしていくために、まずコンテクストの中に置くことから新たなものを追求していく。この試行錯誤からまた、ルールを導き出す。それは、設計作業においてきわめて役立つものである。このアプローチは、ある時点で「ニワトリが先か、卵が先か?」というジレンマに似た疑問をもたらすことがある。どちらが先だったのか?ニワトリなのか、卵なのか?それはつまり、設計をいきなりアイデアと素材を選ぶことから始めるのか、それともまずは体系化された価値基準に当てはめることから始めて、それから次第にアイデアを見つけていくのがいいのかということとつながっている。この問いはひょっとしたら設計の手続きにおいて、より中心的なテーマなのかもしれない。テーマやイメージを創り上げるためのアイデアと建築的なコンセプトを作り、定義していく。これは観察して、解釈を行い、そしてつくっていくことが等価にかつ周期的に切り替わりながら進んでいく。このようにしてプロジェクトは次第に目に見えるかたちを帯びていく。
設計することは、見たり感じたりしたことの記憶と向き合うことである。われわれの記憶はしばしば繋ぎ合わされていて部分的であり、変化していく。それはわれわれすべてに言えることである。記憶の形成はアナログであるが、決して元と同じではない。記憶、それは「私」の投影の影響下にあり、移り変わり遠ざかっていくものである。このようにしてすでに存在したかたちを繰り返すことなく、記憶というフィルターを通して変化しながら、多くの側面において繋がりを保った新たなかたち、アーキタイプのかたちそのものを形成する。そのため、ある特定の視点から記憶について語ることは可能なのだ。
先入観にとらわれずに設計し、具体的な都市、文化のコンテクストの中で考え続け、耐え、答えを追求していかなければならない。コンテクストに対するアプローチは、設計のプロセスの中で具体的に選択していく必要がある。建築家は、どの程度コンテクストに近づけるのか、あるいはコンテクストとは完全に無関係な抽象的なものにしてしまうのかを決めることができる。この選択には常にコンテクストとの関係性が見受けられる。選択の基準は日頃の生活で普段やっているようにすればいい。ルールに従うのかそむくのか?どのような状況においてもルールからの距離をはかりながら、 同時にそこからできる限り自由になって設計していく必要がある。
建築はさまざまな層が重なってできている。それは産業品であり、公共物であり、また同時に美学的な意味や構造をもつ媒介物でもある。しかし、それぞれの側面が芸術としての性質そのものを決定付ける。ある言語をしゃべれるようになるまで学ぶのが難しいのに似ているが、 他人と共有できるようなものをつくるためには、建築を建築たらしめているものを探し求めなくてはならない。今まで見てきたように、それはさまざまなレベルで関係し合っており、単に人々が当たり前に感じている状況を反映するだけでも実は可能なのかもしれない。つまり必要なのは、ひとつのプロジェクトがいろいろなレベルで大きな意味を持ち、複雑さを兼ね備えながら、時間の経過とともに他のあらゆるものが変化してしまうような状況であっても、それに惑わされずに継続していくことである。
建築の重要性は世の中のあらゆる要素に基づいている。歴史、つまり社会の具体的で人々が共有することのできる経験は、一つの都市を分析したときに常に表れてくる。歴史を知ることなく、ひとつの形態の意味するところを知り理解することはほとんど不可能である。形態は常に現代へとつながる過程におけるレイヤーの重なりの結果であって、決して一つの発明から来るものではない。形態は、伝統および歴史の元でさまざまな技術を残していく方法を表すためのイメージである。建築家が何も新たに発明していないように、注意深く建築言語の助けを借りて、やってくる要請に対する答えをただ探していくのみである。
歴史を参照するとき、ただ過去の歴史に基づいて結論を出しても意味がない。むしろ今日の問題に対応するような言語をもって歴史を理解するべきである。だからすでにある経験を大切にしよう。ただそれを繰り返すのではなく、少し違ったやり方で。
総合的でかつ体系的な設計手法を身につけるために、二次的なレベルでさまざまな要素を明確にグループ分けすることができる。これは基本的な要素を区別して相対的な答えを見つけるための手助けになる。ただもちろんこのグループの選択は結論ではないし、唯一のものではない。
・アーバニズムと建築
都市レベルでの判断が建築的なタイポロジーや形態に直接的な影響をもたらす。この環境をつなぐ二つ異なる視点は互いに依存しており、分けることができない。
・特徴と空気感
これらの言葉は場所の特徴を正確に記述するのに適していて、われわれの観察やものごとの相関関係および考えを明らかにする。
・構造と空間
建物の構造と空間は、密接に関係している。空間は正確な状況、プロポーションのもたらす効果、素材や空間に分けられる。構造は空間とかたちを制御する要素である。
・タイポロジーと表現
タイポロジーは一般的な特徴であり時間とはほとんどつながりを持たない。一般的な妥当性を吟味しより適切なプロジェクトを作るのを助ける。表現はむしろ時間の精神と関係しており、周期的な変化の結果である。
・素材と建設
建物の特徴を決定づける素材感は、人の知覚に決定的な影響を与える。この効果は単に知的な意味だけではなく 、身体的で触覚的な重要性も持ち合わせている。結果として、ディテールと素材の特徴は決して触覚的に切り離して考えられるものではない。
これらの要素が一緒になってひとつのプロジェクトを構成している。われわれ建築家に求められているものは、十分に体系化されている。われわれは、与えられた課題と土地の関係において評価をし、すべてを一体的なものに再統合しなければならない。これらすべてはオーケストラにおける指揮者の役割に似ている。われわれの前に、いろいろな楽器を持つ大所帯のオーケストラがいる。われわれには、的確にそれらの異なる能力を利用し、正確に音階と音色を奏で、すばらしいコンサートを作り上げる役目がある。
(翻訳:伊藤達信)
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