建築設計の世界では、建築が竣工するとオープンハウスを開く習慣がある。
オープンハウスとは、簡単に言えば、竣工した建物を施主に引き渡す前の段階で、様々な人たちにお披露目するイベントだ。建築設計者の多くは、施主に開催の許可を貰い、自身が主催する形で、この機会を積極的に作っている。
多くの人々を招くことになるので、その運営は決して楽なものではない。では、何故設計者達は、オープンハウスを行うのだろうか。理由はいくつか考えられるだろう。
第一に、一般的に、建築の中でも住宅は、完成して住まわれた後は、簡単に内部を見せることが出来ない。引渡し前の一瞬が最初で最後の完成した建築を見てもらう機会になる可能性もある。第二に、設計者にとっての貴重な営業の機会と捉える事も出来るだろう。自身の施主になってくれる可能性のある人たちに実際に完成した空間を見てもらう事で、自身の設計の特徴を知ってもらう機会になり、次なる仕事に繋がる場合もある。第三に、同業の建築関係者が集うことで、実際の建築を前にして設計についての意見交換をする機会が生れる。
特に、この三つ目の理由を、特に建築家と呼ばれる人たちは重要視していて、非常に大切にしている印象がある。
2022年1月、建築家の湯浅良介 が自身が設計した住宅『FLASH 』を公開するイベントを行った。
建築作品を訪問者にお披露目する為のものであったが、通常の竣工直後に行われるオープンハウスとは異なる形式で行われたのが特徴的であった。建築の内部を公開するだけでなく、住宅の公開と共に、様々なアーティストによるこの建築に関する作品の展示も同時に行われたのである。
このイベントは「HOUSEPLAYING」と名付けられて行われ、実際に訪れた多くの人々を魅了した。建築のオープンハウスは設計業界で仕事をしていると馴染み深いものであるが、このイベントは通常のそれとは違っていて、その形式自体も建築家が考案したという事実にも非常に興味を惹かれた。
そこで、この住宅 を設計し、また「HOUSEPLAYING」を企画した湯浅に、何を考えて開催に至ったのかをエッセイの形式で綴ってもらった。本稿が今一度内覧会という仕組みを再考する機会になれば幸いである。
(アーキテクチャーフォト編集部)
HOUSEPLAYING───これまでのオープンハウスと異なる、建築の複数の語り方とその可能性
Text:湯浅良介
【特別寄稿】湯浅良介によるエッセイ「HOUSEPLAYING───これまでのオープンハウスと異なる、建築の複数の語り方とその可能性」 photo©高野ユリカ
Out of the water
建築が竣工するとオープンハウスが開かれ建築関係者が集いその場で意見交換をする。大切な情報交換の場であり、自身が設計したものを開示して同業者の意見や批評を仰ぐ機会は、建築というプラットフォームの上に自らを差し出すような献身的な態度ともとれ、建築という言葉の中での研鑽として貴重な機会だと思う。
意見の中で良いところがあれば設計に取り入れようと思うし、悪いところがあれば反面教師的に心に刻む。そして、そういうやりとりを基本的には開催する側も嫌がることなく臨んでいる空気感があり、訪れた方は主催者に対して、自身の感想や批評を伝えることで招いてくれたことに対する感謝の意を表している。それは、暗黙の了解にも感じられ、そんなところに建築の世界の献身さがあるように思う。
僕は元々建築とは畑違いの大学に進んだが、写真や絵画、美術への興味が日に日に増し、通っていた大学を中退して美術大学に進学した。そこでは広く浅くデザインや美術について学んだがその中でも建築についてもっと学びたいと思い大学院で建築科に進んだ。
それだからか、建築を側からみている傍観者的な感覚がどこかにあり、それを払拭したくて建築家のもとで修行しようと内藤廣さんのところで建築を文字通り一から叩き込んでもらった。
それでもやはり“建築”というものに対して少し引いて見てしまうところがある。“建築”という言葉のもつ意味の広さや曖昧さ故のマジックワード感に、その言葉自体に身を委ねることに危うささえ感じてしまう。もちろん建築は好きだが、その言葉の背後に潜む全能感のようなものを垣間見る時に距離を感じるのかもしれない。
僕にとって建築は、写真や絵画が好きだという気持ちの延長線上にある。ひき込まれるような写真や絵画を観るたびに、これを撮った人、描いた人はどんなふうに世界を見ているのだろうと気になる。自分自身も写真を撮ったり絵を描いたりしたこともあるが、見られる側の世界を作ろうと思って建築に携わっている。
だから今でも人が“見ているもの”に興味がある。
そんな僕にとって、写真家の方々に設計した空間を撮ってもらう時間や出来上がった写真を見る瞬間は特別なものだ。
僕は、普段竣工写真を建築写真家ではない写真家やカメラマンに依頼するのだけれど、それは対象が“建築”かどうかを意識から外して撮ってもらいたいからだと思う。つまり、建築を建築の言葉だけで話すことに僕自身が違和感を感じる、ということかもしれない。
独立後初めて設計した新築の住宅ができた時、人に見てもらいたいという想いがふつふつと湧き、天邪鬼にインスタグラムのストーリーに場所も日にちも載せず興味のある人は連絡をくださいとだけ打ち込み、1日でそのストーリーは消えた。(インスタグラムのストーリー機能は、その投稿が24時間で消える仕組み*編集部補足)
そんな投稿を発見して見に来てくれた人達はとても真摯な人ばかりで、感想と言ってテキストや自身の博士論文を送ってくれたり、参考になると思いますと本を教えてくれたり、建築をお披露目するというよりも、設計者に来訪者が情報や知見を与えてくれた有難い機会だった。
僕は普段一人で設計をしている。
基本的には施主と構造設計者以外誰かに相談することもなく、ひたすらその時興味のある本を読みながらスケッチや設計図を描いている。事務所勤めの頃の経験から考えてみてもとても閉じたバランスのわるいやり方だと思うが、今はこのやり方だから捉えられるだろうものに興味がある。