SHARE カンボジアの近代建築を牽引した建築家ヴァン・モリヴァンの特集号『a+u 2017年12月号』のプレビューと、ゲスト・エディター岩元真明によるテキスト「いまヴァン・モリヴァンを取り上げる意味」
カンボジアの近代建築を牽引した建築家ヴァン・モリヴァンの特集号『a+u 2017年12月号』のプレビューと、ゲスト・エディターを勤めた岩元真明によるテキスト「いまヴァン・モリヴァンを取り上げる意味」を掲載します。
いまヴァン・モリヴァンを取り上げる意味
text:岩元真明
ヴァン・モリヴァンはカンボジアのモダン・ムーヴメント(近代建築運動)を牽引した建築家で、カンボジア近代建築の父とよばれる人物である。多くの建築関係者にとっても彼の名は聞き慣れないものかもしれない。しかし、彼の存在には、戦後の近代建築に関する価値観を覆すインパクトがある。
そもそも、日本以外のアジア諸国のモダン・ムーヴメントはあまり知られていない。しかし、1950~70年代のアジアの建築デザインは日本人建築家の独壇場ではない。ヴァン・モリヴァンはその好例であり、たとえば、プノンペンの国立競技場「ナショナル・スポーツ・コンプレックス」(1964)の構想力・構造美・記念碑性は同年に竣工した丹下健三の代々木競技場に匹敵する。また、熱帯の近現代建築、いわゆる「トロピカル・モダン」の建築家は、スリランカのジェフリー・バワを唯一の例外として見過ごされてきた。しかし、実は類似した表現はカンボジアやタイ、インドネシアといった東南アジア諸国でも同時発生し、独特の展開を遂げていた。水、風、影を重視し、環境を飼い慣らすのではなく、その一部となるような美学。同じモンスーン気候に属する日本の近代建築も含めて、そこには汎アジア的な時代精神が感じられる。
ごく最近に至るまで、東南アジアの建築が世界から注目され、評価されることはなかった。その理由は国ごとに異なるが、冷戦・内戦・貧困・独裁制などが要因となり、建築家が作品を世界に問う状況になかったのである。ヴァン・モリヴァンもその一人であり、彼の作品はカンボジア内戦の影響によって忘れ去られた。冷戦終了後、これらの国々にはグローバリゼーションの波が押し寄せ、外国資本による開発が行われた。その多くは純粋な投機目的であり、西欧の現代建築の劣化コピーとしか呼べないような凡庸な建築が次々と建てられた。このような1990年代の状況をレム・コールハースは「ジェネリック・シティ」と呼び、世界中の都市が平板化されてゆくと予言した。
現在、東南アジアの建築家たちはこの平板化・均質化を乗り越えようとして、固有の気候や文化にふさわしいデザインを模索している。そして、きわめて興味深いことに、彼らの実践はモリヴァンら先駆者の仕事に接近しているようにみえる。1950~60年代の汎アジア的な美学あるいは時代精神が、ポスト・ジェネリック・シティの感性としてふたたび浮かび上がっているように思われるのだ。
ところで、このような流れは東南アジアに限らず、世界中に波及しているように感じられる。過去10年間、世界でも日本でも戦後モダニズムの見直しが活発に行われている。欧米のメディアがこぞってブルータリズムを取り上げ、ニーマイヤーやリナ・ボ・バルディらが急速に再評価され、レム・コールハースはメタボリズムの歴史を書き、ル・コルビュジエの作品群が世界遺産になった。a+uは4号連続で1940〜70年代の建築に焦点をあてている。このような潮流は設計の現場にも認められ、あえて言えば、戦後モダニズムのリヴァイバルと言えるような作品も日々生まれている。そこには一体どのような意味があるのか。明確な答えはまだみいだされていないが、現在の世界を覆う不安や閉塞感、不寛容と無関係ではないように思われる。ノスタルジアか、ルネサンスか。熱帯の近代建築は新しい可能性を指し示しているのか。a+uヴァン・モリヴァン特集をご覧いただき、ご批評をいただきたい。
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