SHARE 杉山幸一郎による連載エッセイ “For The Architectural Innocent” 第1回「ピーターズントー、もう一つの教会。」
はじめに
これから10回にわたって建築を紹介していく「僕」が、初めて建築が生まれる瞬間に立ち会ったのは、生まれ育った自宅から少し離れたところで開発が始まった住宅街の新築工事現場で行われていた上棟式でした。
今では見かける機会が少なくなってしまった上棟式でのお餅投げも、当時は近所の人たちが大勢集まって行う一大イベント。
日が沈み始めた夕方5時、大工さんが木造の骨組みの上から家の四隅に隅餅を投げます。これは他のお餅に比べて大きく、決まって500円玉が一緒に包まれていました。
小学生低学年であった僕は、ひと月分のお小遣いと同じ硬貨を受け取ろうと、大工さんに必死に掛け声をかけながら、まだかまだかと空を見上げていました。その大工さんが梁の上をスタスタと歩いていく豪快かつ軽快な足取りといったら。どうして怖くないのだろうと不思議に思っていたが記憶に残っています。
隅餅が投げ終わると、次はお菓子や紅白のお餅が飛んで来ます。
この紅と白の丸いお餅は焼いて食べるとその家が焼ける、火事になると言われていて、必ず別の方法でもって食べなければいけない。本当は焼いて食べるのが一番美味しいのに、と思いつつも、誰とも知らないその家の施主に感謝の気持ちもあったのか、僕は律儀にも電子レンジで温めて食べていました。
ピーク時には毎月3回くらいは上棟式があったと記憶しています。
そうこうしてモダンな街が出来上がる頃に、近所の古い家が建て壊されて、代わりにいくつもの駐車場を前面に備えたコンビニエンスストアができました。そのうちに、近所のスーパーはなくなり、駐車場が売り場面積を上回る大型ショッピングセンターが建ちました。
そんな地方都市革命に加担したコンビニの登場が、僕自身に直接大きな影響を与えたことがあります。それは、近くの建設現場で働くお兄さんがダボダボのニッカボッカと地下足袋を履いて、タオル鉢巻をしてやってくるようになったことです。僕は、すぐにその大工さんのようになりたいと思った。
でもそれは、素直に建築をやりたいというのではなく、まず、あの格好をしたいと思ったのがきっかけなのです。
そんな僕は今、スイスのクールという街に住み、ハルデンシュタインという人口千人の村にある建築設計事務所で働いています。
このエッセイでは、まさにこの世界に「格好から入った」、建築についてさっぱりわからなかった僕が、どうやって建築空間に出会い、理解しようと努め、学んでいるのか、を紹介したいと思います。だからタイトルは For The Architectural Innocent。建築なんかさっぱりわからないや、という人たちへ。です。
※このエッセイは、杉山幸一郎個人の見解を記すもので、ピーター・ズントー事務所のオフィシャルブログという位置づけではありません。
ピーターズントー、もう一つの教会。
神秘的な空間を作り出すマジシャンとして日本でもよく知られている建築家ピーターズントー。彼が設計した建物の中でも、1989年に建てられた聖ベネディクト教会 (St.Benedict Chapel)と 2007年のブラザー・クラウス野外礼拝堂 (Bruder Klaus Chapel)は、素材の選択、工法、出来上がった空間から滲み表れ出る精神性という点において異彩を放っています。
今回僕が訪れたSteilneset Momorialも、魔女裁判で犠牲になった人たちの«記念館»というよりも、これは先の2つに続く3つ目の«教会»であるという印象を受けました。
8月初旬のある日、飛行機に乗ってノルウェーの首都オスロ (Oslo)へ。
そこから国内線に乗り換えてチルケネス (Kirkenes)という少し辺鄙なところにある飛行場に着きました。ここは南北に長い国土を持つノルウェーの北端に位置しています。
さらにそこから北へ、今回の目的地であるバルデ(Vardø)という街へ向かうのですが、残念ながら電車は走っておらず、バスもしくはレンタカーを走らせて約250kmある道のりを辿って行くことになります。
長いドライブになるとは思っていたものの、この道はノルウェーのNational Tourist Routesに指定されているだけあって景色がよく、海岸沿いを気持ちよく移動していくことができました。
Vardøは大陸から少しだけ離れたところにある小さな島です。走り始めて約3時間半、土管を拡大したような海中トンネルをくぐり抜けてようやく辿り着きます。
特に何がというわけではないのだけれど、街全体が哀しみを背負っているような印象を受けました。それは、夏真っ盛りなのに気温が7度で曇り空。さらには、今から訪れる建物が魔女裁判で犠牲になった人々のためだと知っているからでしょうか。
僕たちが泊まったのはValdø hotelという、哀愁ある街の雰囲気をそのまま現したような宿泊所。少しどんよりとした気持ちになっていたものの、併設する暖かな雰囲気のレストランで食事をしたことで心が救われました。
ホテルからSteilneset Momorialまでは車で3分。ホテルのスタッフに教えてもらった通り、建物から少し離れたところにある駐車場に車を止めます。僕たちが着いたのは午後3時頃で日本の夏を想像するとまだまだ日差しの強い時間なのですが、建物が建っているのは海岸沿いで海風が強く、ジャケットを重ね着してもまだ寒いと感じるくらい。。
ふと海岸沿いに目を向けると、目の前には胸のあたりまで伸びた植物が一面に広がるフィールドに1つの道ができていました。
歩いていくと植物の間から目的の建物が見えてきます。
遠くから見ると想像していたよりも周りの風景に溶け込んでいて、事前にインターネットや雑誌で見つけたようなユニークな形態の印象は薄れてきました。
それはこの街へ辿り着く道中で車窓から眺めた景色にあった同じような木造構築物を見てきていたこともあるだろうし、何よりズントーはこの場所に新しく何かを«創り出した»というより、既にここに«在ったものを現してみせた»からであったかもしれません。
つまり、この土地に根ざして育まれた生活文化が«物»としてそのまま現れ出たような建物。
近づいていくと見えてきた大きな石碑。
これは建物に関する情報が記してある言わばイントロダクションです。そこからまたさらに歩いていよいよ建物に近づいていきます。
生い茂る植物をかき分けてできたような道。
建物に入って始まる空間体験ではなく、駐車場からこの石碑まで、そしてさらに建物に至るまでの道を歩いていくところからこの建物全体を享受する空間体験が始まります。
街中にあって気軽にアクセスできるというよりも、街から少し離れた巡礼路で出会う教会のように。はたして人はどうやって建物に出会うべきなのか。ということを改めて教えられているような気持ちになりました。
ここで少し建物の構成について見ていきます。
ノルウェー産ヨーロッパアカマツの無垢材でできた木造構築物(フレーム)が、ある一定の間隔(2,1m)で長手方向に反復して設置されています。垂直の柱は150mm角、最長8m強で、華奢とは言わないまでも、そのプロポーションから繊細な印象を受けます。そして、そのフレーム内に「繭」とも「干した魚!?」とも言えるようなテキスタイル(PTFEで加工されたグラスファイバー製)のヴォリュームが、構築物からワイヤーで引っ張られるように固定されています。
同時にこの引っ張り材が、木造の構築物に対する筋交いとしての役割を果たし、両者が共存することで構造的に補完しあっていることが見て取れます。材同士はいたって簡単な方法でボルト結合され、難しい仕口は見当たりません。
そして、実はこの繭の中に入ることができます。
100m近くある繭の両端の傍にフィールドからアクセスできる直線のスロープが架けてあり、そこからアプローチしていきます。本体である構築物が«線»で描かれた軸組の構造体であるのとは対照的に、このスロープは«面»が強調されたヴォリューム感のあるデザインで本体とは違った現れ方をしています。
普通だったら本体と同じようにもっと軽く見える構造体にするんじゃないか。と当初に僕は思っていたのですが、体験してみると身体の半分が覆い隠されるスロープは、フィールドに茂っている背の高い植物に囲まれた時の感覚と似ていて、建物本体とアプローチの空間体験をうまく繋いでくれているのに気付きます。
つまり、自然植物によって生まれている«面»のアプローチと、木材で構築された«線»の本体との体験を、木造の«面»のスロープが緩やかに運んでいるのです。
またこのスロープは、構造的に完結している建物本体から独立して計画されているため、本体の一部であるというよりも、本体に付加された建築要素として両者のデザイン上のヒエラルキーに違いをつけている。とも解釈できます。
ズントーの建築はまず空間の構成や形の操作があるのではなく、始めに素材の選択があり、その素材が可能とする工法があり、そして素材に合った構法があって空間が形作られていきます。
今回のプロジェクトでは地元の無垢木材とテキスタイル、屋根や接続部にあるスチール、が無理することなく振る舞える形、つまりはもっともシンプルな方法でもって、素材特性を最大限に発揮できるようなデザインの決定がなされています。
テキスタイルを引っ張ることで内部の空間を確保する。チクチクした芋虫のような外観もその引っ張りによって一層強固になる木造軸組のフレームを見れば腑に落ちます。
そんな構成がある中で内部の床はその浮遊しているテキスタイルに触れることなく、直接木造の水平材にスチール部材で固定されています。結果的にできたユニークな形態もそれぞれの要素を順番に確認しながら見ていくと「なんてシンプルな!」と思わず口に出して言ってしまいたいくらいに単純な決定の連続でできています。
ズントー建築を体験すると空間に独特な空気が流れているのがわかります。
ある種の緊張感を含んでいて人間の精神が奮い立たされるような感覚。
温もりを感じるというよりは、建築空間と人間が良い距離を置いて互いに対峙している感じ。時に冷たくもあり、同時に優しく包んでくれているようでもあるのです。それは頭で理解するというよりも五臓六腑で感じるもの。そんな一聞すると神秘的な空間であるにも関わらず、いやむしろ、であるからこそ、建物自体は誰が設計しても自然とこうなる。とでも言ってしまえるように作られているべきだったのでしょう。
世の中にはその外観からして設計者の苦悩と葛藤が見て取れるような建築もあります。そうした建築からは時として鬱陶しさすら感じてしまうことがあるのです。
ズントー建築を読み込んでいくと、建築とは結果として簡単に作られているべきで、緊張感を持った空間には、逆にリラックスした建築の枠組みがあるべきだと考えさせられます。
彼にとって建築は«Pure Construction»なのです。
いよいよ中に入っていきます。
入り口の傍に大きなパイプのようなものが伸びていて、初めはそれが何かわからなかったのですが、そこを押すとドアが自動で開くようになっていました。
そして中に入ると、思わず足元がふらつきそうになります。。
そこには、僕が今まで体験したことのない«くうかん»がありました。
不思議な繭の中に入っていくことから始まり、端から端まで続く長い廊下の終わりは、薄暗くてはっきりと見ることができません。
壁には、魔女として処刑されてしまった犠牲者(91名)それぞれについて記されたシルクの展示布が垂れ下げられ、天井からは白熱電球がぶら下がっています。
そして小さな窓がその電球の数だけあります。電球は窓の位置に合わせた高さに設定されているため、窓を通して外に向かって光を送り続けています。
91個という膨大な数の白熱電球があっても内側のテキスタイルは黒くペイントされているために、内部は想像以上に暗く、それがかえって視覚以外の感覚を研ぎ澄ませていくのを感じます。
テキスタイルの厚みはほんの数ミリで、重なり合う継ぎ足し部分を除いては一層でできています。そのため、ゴォーゴォーと鳴り吹き当たる海風で繭は揺れ動き、荒波が打ち寄せ岩にぶつかる音が一定の間隔をもって聞こえてきます。
音に合わせて揺れ動く白熱電球は、風に揺れる蝋燭のようにも、また犠牲者の魂が宿る火のようにも見えてきます。
どこにでもあるような電球であるはずなのにその存在を定義することができず、常に意味を変えながら揺れ動いていく。。
突如として、身の回りの世界が僕とこの空間だけになったかのように凝縮されてきます。
僕は急に畏れにも似た不安感じると同時に、今自分は建築に守られていることを再確認して、安堵感のようなものを得ます。
建築とは人間にとってこういう存在だったのか。
この建物は記念館(memorial)と名付けられ、そのユニークな外観をメディアを通じてよく目にしていました。
ぜひいつか訪れてみたいと思ってはいたものの、アクセスのし難さに負けて、いつかは。いつかはと先延ばしにしていたのです。。
何よりこの建物を見るためにはるばるノルウェーの北の北にまでやってくるだけの新しい発見(価値)があるかと懐疑的な気持ちもありました。
実際に訪れて、歴史が、この街がこのような建築を必要としていたというのが理屈ではなく、胸の奥の方でスッと吸い込むようにしてわかった気がします。言い換えれば、建物の中にある展示によって知識を得ることだけではなく、空間体験を通して歴史の一部を理解することができるという事実を知ったのです。
建物にアプローチするところから始まった空間体験。
心に揺さぶりをかけてくる。頭で理解しようとする前に思わず感情的反応を呼び起こされる。
そうした経験からも、僕はこの建築を«もう一つの教会»と名付けずにはいられません。
次回は同じノルウェーのセウダ(Sauda)に2017年に竣工したZinc museumを紹介するつもりです。
参考文献 TEC21 50/2014
杉山幸一郎
日本大学高宮研究室、東京藝術大学大学院北川原研究室にて建築を学び、在学中にスイス連邦工科大学チューリッヒ校(ピーターメルクリ スタジオ)に留学。大学院修了後、建築家として活動する。
2014年文化庁新進芸術家海外研修制度によりアトリエ ピーターズントー アンド パートナーにて研修、2015年から同アトリエ勤務。
2016年から同アトリエのワークショップチーフ、2017年からプロジェクトリーダー。
世の中に満ち溢れているけれどなかなか気づくことができないものを見落とさないように、感受性の幅を広げようと日々努力しています。
駒込にあるギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」のブログにも、毎月10日に連載エッセイを綴っています。興味が湧いた方は合わせてご覧になってください。
■本エッセイのその他の回はこちら
- 第10回「ブレゲンツ再考 / 光の霧」
- 第9回「与条件を立てる / 素材絵画」
- 第8回「ブレゲンツ再考 / 光の霧」
- 第7回「光の空気層 / 丸い教会」
- 第6回「タイムスリップ / 木の風船」
- 第5回「木の鳥 / スイス伝統木造建築」
- 第4回「ペンから筆へ」
- 第3回「建築の輪郭。質量と仕上げ。」
- 第2回「ストーリーと黒衣の建築。」
- 第1回「ピーターズントー、もう一つの教会。」