青木淳による、槇文彦の『新建築2017年10月号』に掲載された「変貌する建築家の生態」を受けて公開したテキストです。facebookなどで2017年10月8日に公開されたものを、許可を頂き転載しています。
text:青木淳
新建築10月号の槇さんの「建築論壇」には、ずいぶんと考えさせられた。少々、長くなりそうだけれど、考えたことを書いてみようと思う。
アトリエ事務所は新しい生活の「かた」を創造してきた。しかし現在、亢進する商業資本主義のなかで、アトリエ事務所は存亡の危機を迎えている。それでも、次なる生活の革命をボトムアップで成し遂げようとしている若手建築家たちには希望がある。正確な指摘の数々に頷くばかり。
「公共のプロジェクトでは、アトリエ事務所を取り巻く設計環境は確実に悪化しつつある。」その悪化のひとつの例として挙げられているのがDesign Built方式。諸先輩方の努力でようやくのことで獲得した設計施工分離の原則が今、なし崩し的に壊れはじめている。
ぼくのところでも今、京都市美術館のリニューアル・プロジェクトで、Design Built方式に関わっている。設計として委託されたのは基本設計までで、実施設計以降は施工者が行なう。とうに基本設計は終わっていて、ぼくたちは今、「監修者」という立場だ。
京都市美術館の場合、既存本館の改修が含まれる。これは調査と平行して行なう必要があるので、少なくともその部分はDesign Built方式が妥当かもしれない。工期のしばりもある。美術館のような複雑な文化施設はこの方式は向いていない。でも、施主である京都市の気持ちもよくわかる。
とはいえ、実施設計段階で、調査の結果わかってくることがある。美術館サイドとのより詰めた協議もある。それらを踏まえ、コストバランスを考え、全体のデザインを調整する必要がある。しかし、ぼくたちはすでに設計者の立場から外れている。ぼくたちの意見は「参考」でしかない。
そんななかでも、少しでもいい建築にしたい。いや、京都市美術館は1933年にできて以来、80年余りずっと、京都の人たちの宝であったのだから、その気持ちに応えなくてはならない。いい建築に「したい」という以上に、いい建築に「しなければならない」。
だからぼくたちは、実施設計者の立場ではないけれど、今でも、それと同じくらいの労力をかけて、設計内容を検討し続ける。その結果、いい建築になれば、本望だ。でも、それは今のDesign Built方式の制度がよかった、ということではぜんぜんない。この制度は、まだまだ不完全である。