SHARE 青木淳による東京藝大での講義「表面の論理」の参加者達の感想
青木淳による東京藝術大学教授就任を記念して行われた講義「表面の論理」の参加者の感想をまとめます。
■会場の様子
青木さんレクチャー。表面の論理なるものについて。 pic.twitter.com/DrES5l3hzv
— Ryuji Fujimura (@ryuji_fujimura) 2019年4月19日
青木淳先生就任レクチュアこれから pic.twitter.com/soidMNTnZD
— Yuma Sekijo/赤城侑真 (@YSekijo) 2019年4月19日
■内容の要約・メモ
青木淳さんの教授就任講義。内容は動画の通り。固有名詞に誤りがあればごめんなさい。 pic.twitter.com/V3gN6BLNBA
— Ryotaro Tateishi (@rt_white) 2019年4月19日
今日のメモ。試験公開。 https://t.co/SfMzhIcKGS
— 門脇 耕三 (@kadowaki_kozo) 2019年4月19日
青木さんレクチャー行きました、自分なりにメモメモ、宮川淳後で読みたいと思う、懇親会にも図々しく参加してきた、藝大という環境これからアツイぞ…、と言った感じ、明日は講演会運営側なので今日はzzz pic.twitter.com/3WOaw12Gds
— カワセ (@airitecuteur) 2019年4月19日
■参加者による感想
青木淳さんの教授就任記念レクチャー@藝大へ。『表面の論理』という自分がいま執筆している論文と直接的に関係するテーマだったのでスタッフ総出で拝聴することに。
— 松島 潤平 matsushima-JP (@matsushimaJP) 2019年4月19日
青木さんの言う「表面」という概念をスパッと換言するのは難しいが、「中身を生み得るempty」という否定神学的な表現が今のところ自分としては腑に落ちている。
— 松島 潤平 matsushima-JP (@matsushimaJP) 2019年4月19日
聴いていて驚いたのは、ボキャブラリーは違えど目指す建築のあり方が『隈研吾/マテリアル・ストラクチュアのディテール』(2003)の冒頭論考『素材とは仕上げではない』とまったく同じ話だったということ。https://t.co/kmicgcETb9
— 松島 潤平 matsushima-JP (@matsushimaJP) 2019年4月19日
それは構造体と仕上げが明確に分かれず、相互補完的に存在していて常にスワッピングできるような自由な状態。建築のエレメントが支える/支えられるのヒエラルキーを超えてすべてフラットにパラパラと浮遊している状態。
— 松島 潤平 matsushima-JP (@matsushimaJP) 2019年4月19日
これは隈さんがアンチ・オブジェクト、アンチ・コンクリート、アンチ・安藤忠雄といったカウンター的端緒を持ち、時代精神として今や懐かしき「スーパーフラット」の概念を援用することで語られた論考であった。
— 松島 潤平 matsushima-JP (@matsushimaJP) 2019年4月19日
そこで隈建築との距離感、ゼロ年代のスーパーフラットとの距離感、青木さんにとっての仮想敵である「リアリズム」とは何かということについて、青木研に場所を移しての打ち上げの際に設けられた第二次質問タイムにてご本人に質問させていただいた。
— 松島 潤平 matsushima-JP (@matsushimaJP) 2019年4月19日
青木さんの回答を意訳させていただくと、隈建築、またスーパーフラットは対象をフラットにしようとしていたが、見る/作ると見られる/描かれるいった主体と対象のヒエラルキーは解体していなかった。それが言葉面としての「表層」や「装飾」に留まってしまい、最初から自由な状態になり得なかった、と。
— 松島 潤平 matsushima-JP (@matsushimaJP) 2019年4月19日
原理主義的に表面をテーマに掲げて物事を見る/作ることはノンヒエラルキーではない。そこで主体、ひいては自分を裏切り解体する手続きが常に必要である、と。
— 松島 潤平 matsushima-JP (@matsushimaJP) 2019年4月19日
続いての質問で「リアリストの権化」として仮想敵に名指しされた藤村龍至さんwが「私はリアリストを装ったフォルマリストだ」と答えたあとで「青木さんはフォルマリストを擬態したリアリストである」というプロレス的返しをしたのだが―
— 松島 潤平 matsushima-JP (@matsushimaJP) 2019年4月19日
そのように圧倒的な「解釈=定着化=リアリズムの知性」を持つ解釈お化けの青木さんを究極のリアリストと位置づければ、青木さんのアンチ・リアリズム=アンチ・主体=アンチ・青木となり、一人称をキャンセルするメタファーとしての鏡の話にも着地しながら、綺麗にオチが付くのであった。
— 松島 潤平 matsushima-JP (@matsushimaJP) 2019年4月19日
帰りの車内でスタッフで整理体操的に色々話す。青木さんの言う「一貫性がないという一貫性」というのは本来方法論になり得ず、青木さんのパーソナリティや事務所内クリエイションのブラックボックス内に閉じてしまうのだが―
— 松島 潤平 matsushima-JP (@matsushimaJP) 2019年4月19日
青木さんは常に作品に対して言説を添えるという誠実さがある、と。そのことがオープンエンドな共有可能性を担保している、と。
— 松島 潤平 matsushima-JP (@matsushimaJP) 2019年4月19日
青木さんの「一貫性がないという一貫性」は、自分も含め79~82世代あたりの優柔不断世代はリテラルにその感覚を持っているのだが、テキストを添えなければ本当にその方法が共有不可能になり自慰的制作へと陥ってしまう。常にテキストを添えなければならないと強く思うのであった。
— 松島 潤平 matsushima-JP (@matsushimaJP) 2019年4月19日
建築のエレメントレヴェルで語られていた「属性の自由なスワッピング」は、シチュアシオニスト・インターナショナルに行き着く話。当たり前だけど60~70年代の状況主義的思想は今も循環的に機能しているのね。
— 松島 潤平 matsushima-JP (@matsushimaJP) 2019年4月19日
その後の懇親会も含めて非常に面白かったんだけど、実は青木淳建築は僕にとってトラウマでもある。宮川淳の言う表面の概念、それから青木淳の全ては表面であり、表面には意味が付き纏うという言葉は、もう少し突き詰めると、すべてのリテラルな表面はリテラルに意味が付き纏うけれど、
— Ryotaro Tateishi (@rt_white) 2019年4月19日
宮川の言う「厚みを持ったフィギュラティブな表面」は、そこに特別な意味を持たない限り、表面ということはできないのではないか。すべての表面はリテラルな意味をもつが、フィギュラティブな表面は意義のある意味を持たなければ厚みをもたない。
— Ryotaro Tateishi (@rt_white) 2019年4月19日
修士の間はとにかく建築をみる期間だったんだけど、この裏テーマたちを総合すると、「建築を見る際に建築家のテクストに引きずられない、テクストを一度無視して建築を見る」というルールが必要で、このルールをもとに青木淳建築を見に行った。そしてトラウマ。
— Ryotaro Tateishi (@rt_white) 2019年4月19日
ほとんどの建築には有意義な意味を生み出す距離が存在していて、まさに紙面と眼差しとの間の距離が存在するんだけれど、青木淳の建築はどれだけ距離を探っても、一つも有意義な意味(新鮮さ)を見出せない。わからない。読めない。だから書けない。
— Ryotaro Tateishi (@rt_white) 2019年4月19日
本当に焦って、青木淳のテキストを持って改めて見ると、今度は立ち所に有意義な意味の塊になる。結局青木淳建築は303にはならなかったんだけど、ここで仮説が立った。おそらく青木淳建築と眼差しの間にあるのは距離ではなくて道のり、あるいは速度ではないのかと。どういうことか。
— Ryotaro Tateishi (@rt_white) 2019年4月19日
距離はAとBを結ぶ最短経路だけど、道のりはそこに障害物があって迂回ルートをたどらなければならず、距離は速さと時間で導かれる。青木淳建築と眼差しの間には、障害物という迂回ルートや時間のブラックボックスがあって、テキストは障害物を除去するブルドーザーか、時間を図るストップウォッチの
— Ryotaro Tateishi (@rt_white) 2019年4月19日
ような役割を持っているのではないかと。浅子さんが建築討論で、青木淳建築はゲームのようだとおっしゃってたけど、その比喩を借りるなら青木淳のテキストは攻略本で、批判を恐れずに言えば青木淳建築は攻略本がないと攻略できないクソゲーなのではないか。
— Ryotaro Tateishi (@rt_white) 2019年4月19日
クソゲーというと聞こえが悪いけど、ゲームでいうクソゲーは建築でいうと意味のない建築とも言える。最大限の賛辞だ。もちろん僕は後者の立場。有意義な意味のない建築は、宮川淳的には表面のない建築ということになり、
— Ryotaro Tateishi (@rt_white) 2019年4月19日
となれば青木淳建築はフィギュラティブな表面のない建築ということもできる。ということを前提に今日の講義を聞いていた僕は、青木淳が表面について考える、ということについて脳汁ドパーでした。
— Ryotaro Tateishi (@rt_white) 2019年4月19日
もう一つ。磯崎さんが切断なら、青木さんは接断だなと思った。青木淳はリアリズムとフォルマリズムを対照的に語っていたけど、青木淳建築の射程はこの両者をまたいでいて、時にリアリズム、時にフォルマリズム。まるでスイッチを切り替えて回路を接断するように、どちらの立ち位置に転んでもいいように
— Ryotaro Tateishi (@rt_white) 2019年4月19日
というような内容をどこかにきちんとまとめて書きたい。青木淳建築については、フィクションだとか何だとか、本当に色んな切り口で書ける。ただ青木淳テキストという攻略本がないと書けない。この攻略本を超えるのが、当面の目標か。誰か機会を恵んでくださいm(_ _)m
— Ryotaro Tateishi (@rt_white) 2019年4月19日
レクチャー後の飲み会は感動した。ここまでの環境は望んでいなかった。それは大御所の青木さんが就任したという事実のことではない。藤村さんや中山さんという起爆剤を青木さんが爆破させたという事実。仮面(建築家のスタンス)を理解し合う、共有し合う環境は、建築の可能性を許容し合う環境だった。
— 矢口芳正 (@remkooly17) 2019年4月19日
答えのない議論は欲望を生む。若干あてられているが、昨晩のあの研究室での熱を研究室/coloquiumで継続的に起こしていきたい。青木さんから教え/答えを賜るのではなくて、青木さんが見ている風景を一緒に眺めて議論する場所。
— Wataru Sawada (@w_____s_____) 2019年4月20日
レクチャーは藝大教授を通じて考えたい「表面」の方法論について。磯崎作品を通して70年代のリアリズムとフォルマリズムの転換、建築の骨格と仕上、見ることのイマージュ、フーコー、宮川淳、モーリス・ブランショ、マレーヴィチの話。青木さんの卒論から今までの建築の活動の集大成への予告編だった。 pic.twitter.com/r3ZLwrV6ub
— Kohyoh Yang (@00ur0b0r0s) 2019年4月19日
今日の青木さんの講演会は面白かったしあれこれ想像は膨らむが、同時に思うのは青木さんが引用されていたブランショや宮川淳のあたりは非常に高度であり、自分はきちんと読んでいないので、読んでいないうちにあれこれ自由に述べるのは却って失礼かと思い、きちんと読んでから感想を述べたいと思う。
— Kohyoh Yang (@00ur0b0r0s) 2019年4月19日
個人的に70年代前半後半の当時の建築思潮の雰囲気について、フォルマリズム、コンテクスチュアリズム、ラショラリズム、ラディカリズム、〜イズムあたりについて、当時どのような受容と変遷があったのかについての質問に対して、青木さんがご自身の経験を交えて詳しく返答されたのがかなり良かった。
— Kohyoh Yang (@00ur0b0r0s) 2019年4月19日
今日の青木淳さんのレクチャーは、昨日上げた西沢大良さんの論考と問題意識としては繋がっている。まだ答えられていない問い。
— yoshihide asaco (@asaco4) 2019年4月19日
遺骸の話が個人的には一番の収穫。不気味さについて。ゲームのような建築の次の展開として、キャラクターの話につなげて考えていきたい。
— yoshihide asaco (@asaco4) 2019年4月19日
青木さん談「建築は民主主義を目指してきたから今の時代はリアリズム。これは偏り過ぎてる。解決付かないでしょ?と。表面の問題につなげるのは門脇邸と関係がある。これはすごく綺麗なコンポジション。ばらばらなことが起きるのをどうまとめるか。建築はまとまりを作れる。→
— 建築巡礼。 (@architect01pro) 2019年4月19日
今回の講義は表面についてだったが、その表面の解釈は見る者である自分と見られる対象物の間のこと。では自分と対象物はどうなる?と質問したところ「そのものだと即物的に理解してしまわないことが重要。例えば目の前にあるコップをコップだとそのまま理解してしまえばそれ以上踏み込んで考えない。→
— 建築巡礼。 (@architect01pro) 2019年4月19日
一番印象的だったのはフォルマリズムの根本的な姿勢。ものを作るにしても言葉にしないといけない。何を考えているのか、考えていることを外に出してみる。その時自分に嘘をついてはいけない。どうやってわけのわからないことを表現するか?これはつくる、に限る。といったお話。
— 建築巡礼。 (@architect01pro) 2019年4月19日
青木さんに「言葉に落とし込むことは自分の中のもやもやしたものを一旦頭の外にぽんと出してしまって、客観的に練り直すこと。そこに論理はいらなくて、考えを相手に伝えるための表現」というのがすとんと来た。そう!最終的な目標はそこで、今はそれができるようになるために言語化する訓練中。
— 建築巡礼。 (@architect01pro) 2019年4月19日
講義が延長しながら解体したようなとてもよい雰囲気のアフターで、「なぜ表面を追求するのか」という質問に対して、突如僕の作品に言及していただき、「あれを見てコンポジションこそ自分にとっての課題であると思ったから」と言われたことが個人的なハイライト。僕も考えてみます。
— 門脇 耕三 (@kadowaki_kozo) 2019年4月19日
青木淳さんのレクチャー@藝大を拝聴。最近、建築は「問い」である事を日々実感するのだけど、今日のレクチャーはレクチャー自体が「問い」であり、その意味で非常に建築的だった。超満員となった今日のあの会場の雰囲気は青木さんにしか作れない。
— 古澤大輔/Daisuke Furusawa (@daisukehurusawa) 2019年4月19日